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以前御寄稿頂きました・・

寺院イラスト

何年か前になります。長専寺の小さなホームページを作っておりました時に伊藤上人にご協力いただき御寄稿頂きました法話が見つかり、少しではございますがこちらにてご紹介させていただきます。

皆さんは、仏教の言葉というと、何を最初に思い浮かべるでしょうか?

色即是空でしょうか。南無妙法蓮華経でしょうか。南無阿弥陀仏でしょうか?

おじいちゃんやおばあちゃんが、なんまいだーなんまいだーと手を合わせている姿を思い浮かべられる方が多いと思います。真宗系の方はなもあみだーとも唱えます。これらと南無阿弥陀仏とは、どこが違うのでしょう?正解は、どれも原点は同じであります。なんまいだーは、何度も読むために、読みやすく訛っていったもので、元々は南無阿弥陀仏で、全く同じなのです。もちろん、それぞれの祖師がそれぞれの理解で、意義付けしておられます。法然上人は、念仏を専ら修することを勧め、親鸞上人は、念仏を信ずることに重点を置いているというように、具体的にどう理解するのか、それが各宗派を生むひとつの原因となっているのです。それに伴って、各宗派で、それぞれの読み方の違いもあります。

 ご存知の通り、仏教の言葉は、基本的には古代インド語(サンスクリット語)を漢字に訳している訳なんですが、南無阿弥陀仏の原語は、

   namo    amita  buddha(ya) なも あみた ぶっだーや

で、意味的には本来あったと考えられる最後のyaが欠落しています。namoはnamasがもとで、曲げる、敬礼する、帰命するの意味です。帰命とは、命を帰すほどに信仰するという意味です。

 つぎのamita-buddhaは阿弥陀仏と訳され、読みは、あみたなブッダ(仏)となります。amitaはmitaにaが付いたものですが、aは~でないの意味、mitaは量るの意味であります。ですから、あみたぶっだは、量ることができない仏ということになります。多すぎて量りきれないという意味です。

 阿弥陀仏は、無量寿仏とか無量光仏ともいわれます。阿弥陀仏の量りきれないものは、寿命と光(慈悲の光、私たちを救う力)であります。欠落したyaは、~にの意味なので、南無阿弥陀仏とは、量りきれない寿命と光をもった仏に帰命しますという意味になります。

 浄土宗、浄土真宗の大切なお経に『無量寿経』というお経があります。そのお経のなかに、私たちのような、お釈迦様の説かれた難解な教えを体得できない凡夫は、我が名(阿弥陀仏の名)を唱えたなら、漏れることなく、阿弥陀仏の浄土に迎えて下さると説かれております。さらに、『観無量寿経』にそれが、念仏であり、南無阿弥陀仏であると、説かれます。つまり、念仏=南無阿弥陀仏が浄土に迎えられる通行手形なのです。このような易しい修行なので、凡夫が出来る行であり、雑念を拭いきれない我々が救われる方法であるのです。

 浄土宗の念仏は、専修念仏といって、専ら多くの念仏を唱えよという立場を取ります。禅宗の坐禅は、只坐るところから、静禅といわれます。これに対して、浄土宗の念仏は、多くの念仏を唱え、それによって精神集中が行われるので、動禅といわれます。

 念仏は浄土に迎えて頂く修行であると同時に、今の人生の中で、自分を見つめる修行でもあります。日々の生活に追われ、時代に流され、本当の自分を見失わないように、今一度自分を見直す方法でもあるのです。

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